*どこからが嘘だとか、考えても無駄。
楽しかった。 本当に楽しかった。 新しいバイト先である
オーナー店は、働くにはとても楽しかった。
次の木曜には
新人バイトの中国人と働くことになっている。
驚くほど真面目な青年だそうで、これもまた楽しみだ。
仕事を終えて家に帰り、置いてきた携帯を見てみると
特に変わったことはなかった。 二日前から「しばらく
お待ちください」になっているが、いつまでが『しばらく』なの
だろうか。 日本語について考えた。
徹夜明けで辛さを感じていたが、携帯が使えないと少々困る。
仕方なしにJ−phoneショップに向かった。
修理のためだ。
修理には2週間かかると言われたが、代替器が出払って
いると、それが戻ってくるまで待たされる事になった。
釈然としないものを感じたが、一応は待つことにした。
ついていない。
ショップから帰ると、今度は自宅に電話が掛かってきた。
母親からだった。
−お父さんが、いま手術中なの。 盲腸が破裂して腹膜炎に
なってるらしくて、迎えをやるから、とにかく来て。
重体だった。 弟が運転する車で病院に向かった。
こういった時には、足が無いのが非常に困る。
運転が苦手な
俺とは違い、弟は運転中に携帯で話し、笑いながら運転していた。
本当についていない。
病院に着いてみると、家族待合室という部屋に母方の叔母が
いた。 母はどうしているかと聞いたが、ただ本を買いに行っている
だけだと言われた。 なるほどな。 と思った。
すぐに母は戻ってきた。 看護婦と一緒に泣きながら入ってきた。
死んだ。 と思った。
母は話し出す。 盲腸が破裂したからと思われていたが、
盲腸は綺麗なピンク色をしていたこと。
内臓の炎症が酷く、
小腸と大腸の一部を切り取ったこと。 癌の可能性があること。
もし癌だとすると、かなり進行しているらしい。
検査結果は
一ヵ月後で、一週間は何も口に出来ない。
原因は、今は不明だ。
それからすぐにきた父方の叔母と、医師の説明を受けた。
内容は同じだった。 本人への告知はしない方針を取りたいと
言われたので、これ以上、誰にも言わない事に決まった。
父親に悟られるのを防ぐため。 また小さい親戚たちや、
年老いた者たちには心配をかけないように、とだ。
母は泣いていた。 弟も泣いていた。 少し、泣いた。
しばらくすると父親の姉、義兄、弟、義妹とが集まり、
待合室は満室になった。 事前に決めておいた通り、
盲腸が破裂しての腹膜炎として説明しておいた。
母親は何度も説明に詰まり、俺が代わりに話すことが
多かった。 もう涙はなかったが、弟はすぐに限界な顔をした。
冷や冷やしながらも、最後には義兄が「まあ、まだ大丈夫で
よかったよ」と言って帰った。 すぐにまた見舞いに来ると
言っていたが、父親は体中に針が刺さっていて辛いからと、
断った。 しばらくは遠慮してもらうつもりだ。
そうしなければ
母親の負担も大きくなる。
風邪で痰が絡んでしまうため、処置の為に麻酔で寝ている
父を、集中治療室でやっと見た。 口・喉・鎖骨の間・脇・脇腹に
チューブが刺され、唇の片側をだらり、開いた父親は、
祖父とよく似ていた。 本当に親父なのか分からないほどに。
何の反応も示さない父から離れ、待合室に戻った。
しばらくし、ソファーで寝た。
朝起きると父親に面会に行った。 昨夜と同じように、
白衣を着て帽子をかぶり、手を洗ってICUに向かった。
「癌だとしたらかなり進行している」という話だったので、
かなり痛みがあったはずなのだ。 しかし急に痛くなる事も
あるから、本人に聞いてみないと分からない。
聞いてみようと思ったが、人工呼吸器のシュコー、
シュコー、という音に紛れた声は弱く、どうしてか聞くことが
出来なかった。 質問自体を忘れてしまった。
「刺された針が痛い」 「切られた腹が痛い」
「もうしばらくは
かかりそうだな」といった事を聞いていたら、ぼろが出る気が
したので、すぐに部屋を出た。 母親はまだ居ると教えたが、
ずっとそばに居るとは知らなかったらしい。
月曜なので大学に向かい、終わった。
容態が急変した時に
連絡が来ないと困るので、「キレれば通る」と弟に言われた通り、
J−phoneショップの店員を脅すことにした。
一度は断られたが、
壊れた携帯に何もおかしな事はしていない。
代替器がないのなら、
新しい物と交換してもらおう。 昨日の店員の名札は見ておいた。
家に戻らずそのまま店に向かった。
「関係ない話ですけど、山口さんですよね、下の名前は
なんですか? りえさんですか。 僕の父親の名前はヒトシと
いうんですよ。 きのう倒れて、いまは集中治療室です。
検査中ですが末期癌の可能性があるそうです。
もし、万が一。
父の容態が急変しても、携帯がないせいで死に目に
あえなかった場合、生きている限りあなたを恨みます。
山口りえさん。」
そんな脅し文句を考えながら、再度、店に行ったが、
幸運にも代替器が戻ってきたらしい。
やっと帰宅出来た。 居間には父親が残したのだろう。
土鍋に
入った、ほとんど減っていないお粥と、そのままにされた食器を
片付けて風呂に入った。 母親もいつ戻るかは分からないので、
洗濯をした。 暗くなっていたので乾燥機を使おうとしたが、
扉を開くと服がたくさん入っていた。 なぜか罪悪感のような、
見てはならない物を見た気がして、扉を閉めた。
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